束の間の休息
澄み渡った綺麗な水をたたえる湖に布を浸す。手に伝わるひんやりと冷たい感触が気持ちいい。
水を吸った布を引き上げて、地面の上で軽く絞れば余分な水は大地に返って適度に湿った布が残る。それを手にルルーシュは少しはなれた木陰で木に背中を預けるライを振り返った。
それまで背中に感じていた視線には反応しなかったルルーシュが振り向いたものだから、ライの肩がぴくりと小さく跳ねる。
認めながらも微笑をたたえたまま、一歩踏み出せば今度は身を小さくする。じり、と狭まった距離の分離れるかのように後ずさって、けれど背後には木があるのだから、身じろぎ程度に終わる。それらの反応はきっと本人は無自覚だ。
その様子は警戒を露に毛を逆立てた猫のようで、ルルーシュは思わずかわいいな、と内心で呟いた。口に出そうものなら、切り捨てられそうなので心の中で思うに留まるが。
「陛下、簡単ではありますが傷の手当をさせていただきたいのです」
ライの警戒具合にそれ以上踏み出すことはせず、話すには少し遠い距離を保ったまま話しかければライは伺うようにルルーシュに視線を向けた。依然として表情は硬い。険しい、というより必死に戸惑いを押し隠そうとしているようで、口をへの字に曲げたライの表情は中々に面白いことになっていた。
ライは座り、ルルーシュは立っているので、距離があってもライの視線は上目遣いだ。ああかわいい、愛しい、抱きしめたい。ぐるりと胸のうちに回るそれらの想いを綺麗に隠してルルーシュは微笑み続ける。
「濡れた布で傷口を拭くだけでも、傷の治りは随分と早くなりますよ」
ライの怪我はかすり傷程度。すでに血は固まりつつある。けれど、そのまま放置するよりも一度きちんと拭いた方が断然いい。傷は軽症でも、切りつけた剣には他人の血も付着していただろうし、剣の成分は鉄なのだ。それらが人体に及ぼす影響に加え、放置した傷口からは細菌も入り込む。この時代で感染症にかかることほど、怖いことはない。
もちろん、消毒するにこしたことはないが、あいにくこの場には消毒液がない。濡れた布で拭くのは気休め程度ではあるが、しないに越したことはないし、なにより傷口を拭くというのを口実としてライの傍に寄りたいという気持ちもある。
無事な姿を遠めに見られるだけでいい。そう思って満足できるほど、ルルーシュは謙虚ではないのだ。
「……」
「陛下」
返事のないライに促すように呼びかければ、ライは本当に小さく口を動かした。言葉はルルーシュに届かない。けれどその口が確かに「わかった」と動いたのを見て取って、ルルーシュはライに歩み寄った。
丁寧に丁寧にライの頬を拭う。僅かに裂傷のあるライの顔に内心は穏やかではなかった。
アッシュフォード学園では“幻の美形”とまで呼ばれたライの綺麗な顔に(今は僅かに、かわいい、の要素もある)傷があるのだ。
この傷をつけた相手は万死に値する。いや、そうやすやすとは殺してやらない。死なせてくれと懇願し、死にたいと願うほどの苦悶と恐怖を与えてじわじわと嬲り殺してやる。
報復の方法を幾万通りも思い浮かべるルルーシュの表情は優しくて、纏う雰囲気も穏やかだ。それでもやはり、伝わるものはあるのだろう。ライの表情に一瞬怯えがよぎった。
それを認めて、ルルーシュは即座に思考をシャットダウンする。愛すライに怯えられるなど、あってはならない。きれいさっぱり、それまでの思考を切り離したルルーシュは安心させようと表情をいっそう優しくした。
「他にお怪我はありませんか?」
ルルーシュの問いに、ライは少し考えたあと無言で右腕を差し出した。綺麗な衣装は切り裂かれ、肌が覗いている。だが、咄嗟によけたのか白い衣装は血に染まってはいない。皮膚を赤いラインが一本横切っているだけだ。
この傷をつけた相手もまた、抹殺対象に追加だ。
ライの腕をとって、その細さと白さに驚きながらもそっと布で拭った。成長期にある男子にとって、二年という歳月は重要だ。何度も実感したことだが、やはり目の前のライはルルーシュの知るライより幼い。腕の細さを含め、目の当たりにすると分かる華奢な体つき。正面でまともに相対したことがないので、正確には分からないが恐らく身長もルルーシュより低いだろう。
座り込んだライと片膝立ちのルルーシュではルルーシュの視線の方が高く、下から感じる視線に目を合わせれば、ライはふいっとそっぽを向いた。
それは気になる相手を前にした初恋の初々しい反応のようで、ルルーシュは抱きしめたいと震える腕を理性で必死に押さえつけることになった。
見渡す限り、木、木、木。
時折鳥が枝に止まっているのか囀りが聞こえ、風に木々がざわめく。目の前に聳え立つ木には、木の実がついていて、それを見上げながらルルーシュは一つ頷いた。
<ユフィのときは失敗したからな。今度こそ>
以前、神根島でユフィと二人遭難したさい、ルルーシュは落とし穴を掘って食料の調達を試みた。だが、予測に反して食料を確保することは叶わず穴を掘るために体力を使い、ぜぃぜぃと荒い息の元で悔しい思いをしたものだ。
だから、今度こそは。第一、ライの前で格好悪い姿を見せるわけにも行かない。
ルルーシュがこんな決意をしている理由は一つ。先ほどの湖の畔で一夜を明かすことにしたからだ。本陣まで、戻れない距離ではない。だが、ライを本陣に戻すことをルルーシュは良しとできない。出来ない理由が、あった。
だからルルーシュはライの手当てを終えた後「食料をとってきます」といって、森の中に分け入った。先ほど戦闘をおこなった兵士たちがいないとも限らなかったが、あの場にじっとしていては腹が減る。一応護身用にライから短剣を渡された。渡された、というよりは放り投げられたといったほうがいい。
背を翻したルルーシュの背中にライが無造作に投げつけたのだ。鞘に入っていたし、ライが本気で投げたわけではなかったので、怪我はしなかったが。スザクやライなら難なく受け取れたのだろうが、ルルーシュには無理だった。背中に当たった異物感に驚いて振り返ったルルーシュの視界に納まったのは、前方をにらみつけるように膝を抱えたライだった。ルルーシュのほうを、みてはいなかったけれど。それでも、ルルーシュを優しい気持ちにさせるのは十分だった。
(短剣を、武器を渡されたというの、は……そ、れな、りのっ……しん、ら……い、がっ)
武器を渡せば、襲い掛かられたとき負傷する可能性が上がる。なのに、ライはルルーシュに武器を渡した。それは裏返せば信頼の証となるだろう。もちろん、以前のような信頼ではないし、エリオスに向けるほどの信頼でもない。
けれど、今はそれで十分すぎた。
久々の木登りにすでに息を乱しながら、ルルーシュは満足気に笑った。なんとか木の実がなっている枝まで辿り着いて、ゆっくりと慎重に手を伸ばす。木の実を掴んだ、その瞬間。
お約束というか、やっぱりというか。
ルルーシュは枝から滑り落ちた。
「……お前」
「なにもおっしゃらないでください」
ライの元に戻ってきたルルーシュの腕の中にはいくつかの木の実と途中で見つけた木苺が大事に抱えられていた。だが、肝心のルルーシュ本人は正直、ぼろぼろだった。
髪の毛はぼさぼさで、さきほどまで傷一つなかった顔には木の枝で引っかいた後があり、服は埃っぽいを通り越して泥で汚れていた。
最初は「襲われたのか!」と焦った様子で問いただしてきたライだが、ルルーシュが素直に「木から落ちました」と告げれば、言葉を失った。
唖然とするライから視線を斜め横に逸らしたルルーシュは、己の運動神経のなさを呪いつつそれでも収穫は皆無でなかったことが僅かに誇らしかった。手ぶらだったあのときより、はるかにましだ。
「……ふ、あはははっ」
ふいに響いた笑い声に驚いて視線をライに戻せば、ライは口元を手で押さえ笑っていた。この時代で初めて出会ったときのような、口角を吊り上げる挑発的な笑みではない、明るい笑い声だ。
くすくすと笑ったライは若干涙の滲んだ顔をルルーシュに向けると、相好を崩した。
「あれだけ格好つけておいて、そのざまか」
「……申し訳ありません」
「ああ、悪い。責めていない。ただ、意外だっただけだ」
「意外、ですか?」
この時代で、始めてみる柔らかい笑み。裏のない、警戒を解いた表情。ルルーシュが問い返せば、ライはくすりと笑みを零してルルーシュの頭についていた葉っぱを払った。
「私に命令形で的確な指示を出したからな。どれほどの手馴れかと警戒していた」
先の戦闘。ライの行動の癖まで把握していたような的確な指示。乱戦の様相を呈していたあの中で、あれほどまでの正確で最も効率的な指示をだしたルルーシュに、ライはどれほどの戦場を潜り抜けてきた猛者なのかと警戒を抱いていたのだ。
だが、それも今のルルーシュをみれば違うと分かる。もしライの警戒を解くために演技をしているのだとしたら、見上げた役者魂だが、そのときはそのとき。だまされてやってもいい。
けれど、ライは不思議とルルーシュがしているのが演技だとは思わなかった。ルルーシュの向けるライへの見返りを求めていない深い愛情に似た忠誠も、嘘だとは思えなかったし、思うことは出来なかった。
目の前で居心地悪そうに顔をひそめているルルーシュを、疑うことこそ間違っていると、今まで生き抜く中で培ってきた直感が告げていた。
「お前、野生のハーブなどの香草は見分けがつくか?」
「ええ、ある程度は」
「なら今度はそれを取ってこい。怪我、しないようにな」
悪戯っぽく笑って告げられた言葉に、ルルーシュは嬉しい気持ちと釈然としない気持ちの二つを抱えた複雑な面持ちで頷いた。
2010/02/01