差し伸べられた掌
駆ける駆ける駆ける。
一秒でも一瞬でも早く、ライの元へ駆けつけるために。姿勢を低くして、全速力で馬を駆る。
視界の端を流れる森の景色、足場は悪く馬もバランスを取るのに精一杯だろうが、構わずに横腹を力強く蹴る。
馬上経験などまだ皇子だった幼い頃に教養の一つとして嗜み程度に覚えさせられたものだったというのに、意外と乗りこなせている自身を褒めたくなった。
うまく手綱を操り木の根などをよけ、転倒することなくルルーシュは敵兵を視認できる場所まで辿り着くことに成功した。
すぐに駆け寄ることはせず、僅かな距離を開けて馬を止め、乱戦の様を呈している場所を鋭く見つめる。
ぐるりと、ライを囲むように十数人の兵がいた。倒れ付した人影も多く、流れ出た血で草木は紅く染まっていた。ライの真っ白な衣装は所々破け、場所によっては血が滲む。剣を構え、次々に襲い来る兵を的確に急所を捉えた動きで倒す姿こそ確りとして頼もしいが、息は明らかに荒く額には汗が滲み、疲労をうかがわせいていた。
眼前の敵を袈裟懸けに切り伏せたライの背後に、大きく剣を振りかぶった兵がいた。考えるより先に口が動く。
「後ろだ!」
「!」
ルルーシュの声に反応し、右足を軸にしてぐるりと振り返ったライが横に剣をなぎ払う。
「そのまま45度回れ!」
胴を掠めたが、まだ浅い。追撃を加えようとしたライを制したのは、ルルーシュの指示だ。ライは意外にも素直にルルーシュの言葉に従い、怯んで一歩下がった兵は捨て置いて剣を構えたまま軸足の右足の半歩後ろに左足を置き、その場で45度ぐるりと回った。
その剣の軌跡は横合いからライを切り殺そうとしていた兵士の胸元を、抉った。
「左前方を切り崩せ!」
とっくに兵士たちもルルーシュの存在に気づいている。だというのに、ルルーシュに攻撃がなされないのはルルーシュを殺すことよりも一度囲ったライを殺すことを優先させているからだ。ルルーシュが剣で斬りかかるには僅かに遠い位置にいるのも理由の一つだろう。
ライがルルーシュの言うとおり、左前方の敵に重点を置いて攻撃するのをみて、ルルーシュも再び馬の腹を蹴った。続けざまにどこを攻撃するのか指示を出し、大きく回りこむように迂回して、ライへと近づいていく。
「こっちだ!!」
ライと兵が気づいたときには、兵の数は半分になり、遠くにいたはずのルルーシュはライのすぐ傍にいた。
馬上から真っ直ぐにライへと伸ばされた掌。ライは僅かに目を見開いて、けれど迷うことなくその手をとった。
ぐいっと馬上へと引き上げられる。ルルーシュはライが後ろに座ったのを確認して、三度馬を走らせた。
全速力で馬を走らせる。大の大人に比べれば軽いとはいえ、二人が乗った馬は本来ほどのスピードは出せないものの、木々の合間をじぐざぐに縫って走れば追っ手をまくのは簡単だった。
平らでない大地を走る馬の上での会話は、舌を噛んでもおかしくない。背後から突き刺すような視線を感じつつも、ライも流石に駆ける馬の上でルルーシュを問い詰めることはしなかった。
問いがなされたのは、完全に追っての気配がなくなって、ルルーシュがゆるやかに馬の足を止めた後だ。
「どうしてここにいる」
すらりと首筋にあてがわれた冷たい感触。ルルーシュのすぐ後ろに、体温すら感じられる場所にいるライがルルーシュに突きつけた刃。
それは、初めて出会った日と同じだ。
助けに入ったというのに、この待遇。憤りを感じるべき場面なのだろうが、ルルーシュが感じたのはおかしさだった。くす、と笑みを零したルルーシュにライの纏う気配が剣呑さを増す。
「答えろ」
短い詰問。一度瞼を閉じて、一つ呼吸をする。間を置いたのは、答えを探したからではない。適度に焦らすことの効果を狙ったのだ。
「陛下は覚えていないでしょう」
すぐに答えは渡さない。
ライにとって意図の伝わらない言葉を選び、口にした。眉をひそめたのが伝わってくる。押し付けられた剣の冷たさがまして、けれどあの日のように血が流れることはない。手加減を、されている。される程度には、ライの中でルルーシュという存在は即座に切り捨てるべき敵という位置から離れた場所にいるのだろうか。そうであればいい。
「私は、陛下に命を救われました」
「……」
以前にも伝えた言葉を繰り返す。ライは黙然としたまま、以前と首筋にある冷気は変わらない。ライが少しでも力を加えれば、ルルーシュの命はいとも簡単に消える。けれど、ルルーシュは恐ろしいとは思わなかった。
ライが自分を殺すことはない。
この時代で、自分を知らないライに対して抱くにはおかしな確信だ。理解しているのに、ルルーシュは自分の考えが間違っているとは思わない。
「陛下は自らの命をかけて、私を救ってくださった。だから私も、陛下を守るためならば死を厭いません」
「それは、私の問いに対する適切な答えではない」
ルルーシュの、はぐらかすような答え。ライの指摘にルルーシュは笑みを深くする。
ライは今、ルルーシュの言葉を否定しなかった。拒否しなかった。それは、受け入れたも同じこと。ルルーシュの想いを、受け取ったということ。
「陛下の危機に、側近たる私が駆けつけることの何がおかしいのです」
信頼と実績のない、名前だけの立場だとしても。それでもルルーシュはライの側近で。それは、十分な理由になりえるだろう。
慈愛に満ちた微笑を浮かべて振り返り、優しさと愛の篭った声音で言い切ったルルーシュとその瞳に溢れる愛情を認めたライは僅かに息を飲み込んだ。
黙り込んだライの乗る馬を牽引して、ルルーシュは澄んだ水をたたえる湖まで来ていた。
土地勘のないルルーシュが、湖の場所を知っていたわけではないし、もちろん偶然辿り着いたのでもない。木々の配置や草花の茂り具合、ここにいたるまでの森の中の様子、太陽の位置から計算してはじき出しただけだ。
湖の傍、適当な木に手綱を結び、いまだ唇を引き結んだまま、難しい顔をしているライに悟られない程度の微苦笑を漏らす。
この時代のライにとって、他人とは敵だ。
信頼することは自らの死を示し、人とは己を脅かす存在でしかない。
端から心を通わせるつもりなどなく、母や妹(恐らくはエリオスという青年もだが)を除けば人間は全て害あるもの。
そうでないものもいると知っていても、ライは全てを敵だと位置づけた。
自分と母と妹を守るために手段は厭わない。その手段の中には、当然味方を切り捨てる策略だって含まれていただろう。ライは、本当に優しい人間だ。そのライが、僅かでも、ほんの少しでも、情を掛ければ。掛けた、相手を切り捨てることを余儀なくされれば。きっと結果的には切り捨てる。けれどその後の、己の良心の呵責には、耐え切れない。
だからライは最初から否定する。拒否をして、己の中に踏み入らせない。自分を守るために。
ライがもっと、年を重ねていたなら。ルルーシュの知るライくらい、せめてその程度の年齢であれば。また違った方法もあっただろう。相手を信用し、信頼を置いて、頼ることで新たな道が開けたに違いない。
けれど、いま目の前できっと内心で葛藤しているライはまだ15歳で。王位についたのは、さらに幼い13歳のときで。いくら賢く聡明だったといえど、無理があったはずだ。そして、後者の道を選ぶにはライにはあまりにも心から信頼できる相手が少なすぎた。
手に取るようにその心がわかるから、ルルーシュは苦笑に僅かな憐憫を覘かせる。
ルルーシュは、父に捨てられ、政治の駒として日本に送られたとき、スザクに出逢った。最初は喧嘩ばかりして、お互いにお互いを信頼していなかったけれど、それでも分かり合えた。ルルーシュはスザクに救われた。でも、ライには、そんな相手いなかっただろう。
だから、だから。
抱えきれないほどの孤独に耐えている、小さな少年王を全身全霊全力で守りたい。
剣を構える敵からだけではなく、内側からじわじわと毒のように侵してくる味方からも。
「陛下」
呼べばゆっくりライは視線をルルーシュに向けた。表情こそ平然と常の様子を装っていても、瞳には隠しきれない動揺の色があった。それは、未知のものに怯える幼子のようで、裏表のない無垢な愛情を欲した過去の己のようで、愛しいと、思った。
安心させるよう微笑んで、するりと手を伸ばす。
「陛下」
硬直したように動かないライに、再度呼びかける。声には最高の愛しさを篭めて、最愛の人を呼ぶ、その声音で。
ルルーシュから向けられるのは、恋焦がれる人を呼ぶかのような恋慕を感じさせる深い愛だ。真っ直ぐ自分に捧げられたそれに、ライの平然とした表情が崩れ、困惑を露にする。
微笑みも伸ばした手もそのままに、ライの反応を待つ。
ゆるゆると、ライの日に焼けていない真っ白な掌が動いて、戸惑いを表すように何度か伸ばした手の動きをとめながら、それでも。
ライは、ルルーシュの掌に己のものを重ね合わせた。
2010/01/31